「なにが言いたいんだ」
昨晩、寝床に着くまで思い返していた言葉です。
物心ついた時から、耳にタコ、血豆が出来る程に言われ続けています。
なんにでも噛み付く性格でした。
噛み付き方は決まって否定・批判。こっちの主張なんぞそこにはない。
捻くれて捻くれて、十代に入ると“表現”に走ります。
当時“表現”とは社会に抗う為の手段。武器。力。
絵を描き、踊り、言葉を捲くし立てる。それらのエネルギーを
腕力と呼ぶならば、文字通りねじ伏せることで、悲しみが、怒りが
当然だと。正当性を叫ぶのでした。
ボタンを正しく掛け違えたせいで、運良くうつわを作れています。
そこには生きる事への感謝しかない。本当にそれしかない。
と思っていたのですが、果たしてそこには走り抜けた過去のような、
狂おしいほどの力はないのだろうか。
貴方は何が言いたいのか。
近頃向けられたこの言葉は、肯定的な意味であろうと
僕の作る道具から中指を立てるような意味を見てとれたからでしょうか。
うつわは常にうつわで居続けるからこそ、僕は敬う。
僕の道具に、僕の主張はいらない。
如何にして“関わらず”制作するか。今抱えている課題です。
まだまだ欲を捨てきれないです。
求める健全な道具を作るにはあとどれ程かかるだろうかと悩む日々。
ここでやっと写真に触れますが、続々と欲の塊が出来てきました。
「あまのじゃく」
初めは反論したけれど、もう言い返せません。