三日間信州方面に行ってました。
色々考えたこと、体験したことはあったのだけどその話は次回。
そう、寝れない。いや眠い。が、目が冴えてしまっている。
ここ最近眠りにつく直前にグルッと頭が回転する瞬間がある。
それはアイディアであったりくだらない妄想の結論であったりが
頭を巡るのだが、なるべくメモを取るようにしている。
それがつい先ほど。もう寝れやしない。
たいしたこと無いけどせっかくだから書き記そう。
なんせこのブログは“メモ”だ。
踊るということ。
僕はダンサーだった。
特にいつからダンサーで、いつダンサーじゃなくなったかはわからぬが。
仮にここでは表現者として踊っていた時期を指そう。
かなりの年月をダンスに捧げてきた。随分と小さな時から踊っている。
(実質しっかりと踊ることに向き合ったのは高校生のときから)
高校を卒業と同時に意識的に踊ることをやめた。やらなくなった。
当時は表現することに飽きたのだと思っていた。
自分のために踊る。これは一貫していたと思う。
やっていたものを定義にはめるならばストリートダンスであり、
しかしながら派手な技術や特有の型にはなんの魅力も感じてはいなかった。
元々は黒人文化から生まれたものだが、僕はその唯一の“間”や“匂い”
にやられてしまった。
表現技術を抜粋して見ると、バレエや日本舞踊などに劣るだろうか。
しかしそこには人間の最も根源的な何かが隠されてる気がした。
現時点での答えはリズムであろう。拍子や基本的規則に乗らない
もっと感覚的なリズム。衝動的、感動的なリズム。
それを我々日本人が掴もうとすると表面的なものになってしまう。
なぜか。それは非日常的だから?。
日本にいて五穀豊穣の祝い、祈りの舞を見ているとリズムを見て取れる。
ここからは更に感覚的な話だが、血が騒ぎ毛穴が開くあの感じ、
あれはリズムが点として体に入ってくるからだと思う。
つまるところ打楽器。セロニアスモンクのピアノなんてまさにそう。
不器用で抑えられない衝動的リズムがストリートダンスそのものだ。
そこには技術なんていらなくて、手の、足の向かうままに。
国籍、文化、人種なんて関係の無い人の人たるリズム。
と、ここまで考えたのが今日の昼間。
寝る前にほんの少しだけ皿を彫ったら僕にも自然と彫り続けるリズム
があることに気づく。
多分これもあのリズム。
眠くなってしまった。
もう話がまとまらないのでこの辺で。